何をしても続かない人へ 頑張れない原因は思考回路にあった
今回は何をしても続かない人向け…!
"頑張りたい気持ち"と"頑張れない気持ち"について話していきたいと思います。
誰にでも、一度はなにかを頑張ろうと思ったことはあるかと思います。
例えば、テストでいい点を取ろうとか、仕事でいい成績を出そうとか…
私は数えきれないほど頑張りたいと思ったことがあります。
しかし、それは"思った"だけでした。
というのも、私は俗にいう三日坊主タイプの人間で、なにかはじめてもすぐに飽きてしまう性格でした。
そんな私でもいくつかのことはある程度、頑張れていたのではないかと思うこともあります。
そのうちの一つが勉強です。
私は小中は公立の学校に通っていました。
成績も至って普通…というよりはむしろ悪かったです。
(課題のワークは答えを丸写ししていました…)
しかし、あることから勉強に目覚め、高校は中堅?私立高校に進学しました。
勉強に目覚めたキッカケについては、また記事を書こうと思います!
入学当初、三教科の平均偏差値は40くらいでした…
受験直前にはなんとか平均60くらいまで上げることができました。
そして、受験でなんとか合格をいただけたので、今は駅伝で有名な私立大学に通っております。
二つ目は、ダイエットです。
私は、身長が高い方なので本来、自分的に体重がある程度あったとしても標準体重です。
しかし、中学二年生、思春期の私は周りの女の子がスラっと痩せていることが羨ましかったです。
また当時はまだ勉強にも目覚めていませんでしたから、頑張っていることがありませんでした。
ダイエットは数値化できるので、達成も分かりやすいと思い、始めることにしました。
私は前まで完璧主義で、何事もはじめたからには成し遂げたいと思うタイプでした。
その思いから、とっくに余分なところは落とし終わっていたのにもかかわらず、ダイエットを続けてしまいました。
気付いたとき、私は標準体重から15キロ以上も痩せてしまっていました。
私は摂食障害になってしまっていたのです。
このことについては、また別に記事を書きたいと思います。
人生である程度頑張ったことといえば、この二つくらいです。
それは、目標も達成も分かりやすいことだからだと思います。
普段、頑張りたい気持ちを抱いても、途中で諦めてしまったり、別のことを始めてしまい両立できなくなってしまったりしていました。
そういう自分にいつも嫌気がさしていました。
しかし、考えてみてください。
私はそんなに多くのことを本当に頑張れるのでしょうか。
そんな多くのことを頑張る必要があるのでしょうか。
そもそも、なぜ頑張ろうとするのでしょうか。
このように考えたとき、私は必要以上に頑張ることをやめました。
私の頑張りたい気持ちの根本には、誰かに認めてもらいたいという気持ちが強くありました。
しかし、この動機では目的(認めてもらいたいという気持ちの充足)の達成は不十分でした。
一つ目の勉強に関しては、大成功でした。
親から先生から友人から祝福を受け、皆が私の努力を認めてくれていたと思います。
反対に、二つ目のダイエットに関しては大失敗でした。
家族関係の悪化、後遺症に苦しむ日々が続き、自分のことも幾度と責めました。
二つとも誰かに認めてもらいたいという思いが過剰に働いた結果ですが、吉と凶と結果は大きく変わりました。
このことを今振り返って思うことは、頑張りたい気持ちの動機は承認欲求ではなく、自らが抱く向上心や、自己否定感から自己肯定感への変換であるべきだと思います。
承認欲求と何がちがうの?と思うかもしれません。
この相反の動機は、自立という点で大きく違うように思います。
承認欲求から何かを頑張ろうとした場合、達成された場合には良いが、達成されなかった場合、相手と自分の両者を責めることになります。
例えば、あなたが子供だとします。
毎日、夕食の皿洗いを母は面倒に思っています。
この皿を自分が洗えば、母は楽をすることができます。
1)承認欲求が動機の場合
【動機】
母に褒められたい、いい子と思われたい→皿洗いをする
=母からの返し(褒め言葉、見てくれているという実感、対価)を無意識に求めている。
この返しが返ってこない場合→承認してくれないという事実が目的の達成を阻み、皿洗い以外にも認めてもらえそうなことをはじめる(ここでの目的の達成とは"母からの承認"であるため)
この結果、自分の能力以上の役割を背負うことになり、それが日常化してしまう。
そのため、認められたいという目的の達成はあいまい化するし、目的の達成の主役が相手(ここでは母)になるため相手の都合に振り回される。
2)向上心や、自己否定感から自己肯定感への変換が動機の場合
【動機】
今まで家事をしたことがなく(自己否定感)、家事を覚えたい(自己肯定感、向上心)→皿洗いをする
~から、~のためにといった相手が存在しないため、シンプルにここでの目的の達成は皿洗いの習得になる。
たとえ、母にお礼を言われなくても、見てくれていなくても、母に認めてもらうことが目的ではないので気にする必要がないと割り切ることができる。
母がお礼を言ったり、見てくれていたとしたら、それはオプションと考えることができる。
自らによる自分の成長+オプション(他人からの評価)と捉えられる。
以上が、私が考えた相反する動機による目的の達成の例です。
二つ目では子供は完全に自立した考えから、頑張りたい気持ちを抱いています。
私は、以前まで一つ目の動機から何かをはじめ、続けようとし、挫折してきましたが、今考えれば当然のことです…笑
頑張れない気持ちというのは、
1)一つ目の動機からはじめた
2)同時に自分の能力以上の事柄を始めて、無理をした
3)本当に頑張る必要があるか吟味しなかった
主に、この三つから生まれるものではないかと思います。
色々、話が膨れてしまったのですが、まとめますと
頑張りたい気持ちは自立心による動機のもとに由来すべきであり、頑張れない気持ちを抱くことはいたって普通のことであるということです。
そして、単に頑張ることが素晴らしいのではないと思います。
どうしてその事柄をはじめ、続け、向上、もしくは現状維持させたいのかを自分の心にきちんと納得させることが、頑張りたい気持ちを生かし、頑張ることが素晴らしいことになるのだと思います。
人生、頑張ってばかりじゃ、走れません。
マラソン選手だって、365日、24時間走りませんし、ずっと走ろうとも思わないと思います。頑張ることが上手にできるひとほど、休息の大切さを知っているはずです。
頑張りたい気持ち、頑張れない気持ち、その葛藤の中で自分を成長させることができるのかもしれません。
私も、このブログはそんな風に書いていきたいなと思いました!
長くなりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました(^^)
それでは、また。